プロローグ
とある20年前の日曜夜・・・「また明日から憂鬱な1日が始まる。」
心の底から行きたくない会社への出勤ほどツライものはないだろう・・・。
18歳の僕は高校卒業後に、実家を出て都会で一人暮らしをしながら、とあるデザインの専門学校に通っていた。
元々絵を書くことも好きだったし、美術の授業も得意な方だった僕の「まだ就職したくないし」と考えた、何と無くの選択の結果。
大した勉強もせずに日々を楽しく過ごすだけの学生生活。田舎と違う世界に全てが新鮮だったし、初めての一人暮らしも楽しかった。
グラフィックデザインの展示会も各所でよく開催されていて、頻繁に足を運んだりとデザイン専門学校生らしい生活もした。
何の責任もなく楽しく過ごしていれば良いだけの学校生活の2年は瞬く間に終わりを告げた。
デザインの何かを学べたのか??と当時の自分に問いかけてみても、「学べた!」なんて答えなんか返ってくるはずもないほどに、ほぼデザインに関しては学べていなかったのではないか。
それもそのはず。
22年前の当時、僕がグラフィックデザイン科なるところで勉強していたのは、手書きのイラストや今となっては化石となった烏口での線の引き方など。当時もどこで役に立つのか疑問に思っていたが、実際その通り。今まで役に立ったことなんてなかった。
2年生の中盤までは、ほぼグラフィックデザインなんてカッコイイ名前に見合ったことは何も勉強していなかった。
唯一の救いは、卒業も見えてきている2年生の後期に出会ったマッキントッシュ!(Mac)
この授業があったことが僕の人生を大きく変えた。
いや、勉強したとは言えないくらいMacで大したデザインなんて教えてもらえなかったけど、
ど素人の学生にもデザインの時代が手書きからPCへ移行していくのがリアルにわかった。
すぐさま、親に連絡して当時めっちゃ流行ったiMacを買ってもらったのを覚えている。
そんなこんなで、学校生活は終わりを告げた訳だけど、、、
学校生活の最後の最後でMacを触っていたことだけが幸運だった。
地元の印刷会社へデザイナーとして就職することができた。
記事の目次
- 就職1社目:日曜夜・・・また明日から憂鬱な1日が始まる
- デザイナーって楽しいを感じる!も倒産・・・
- 運命の歯車が動き始めた!
記事の執筆者
デザイナー歴20年、20〜30歳までデザイン・印刷業の3社を経験。31歳で個人事業主デザイナーとして独立、その後、法人成り。少数精鋭の3名でのデザイン会社を経営中。都内でなくてもデザイナー独立は成り立ちます。
就職1社目:日曜夜・・・また明日から憂鬱な1日が始まる
印刷会社へ入った二十歳の僕は、Macが少し使えるというだけでデザインなんて何もやったこともないし大丈夫かよ??という不安一色。当時その印刷会社では、Macを導入したばかりで、ど素人の僕も立派な戦力としてカウントされていた。今考えると笑っちゃうような話。
そうそう、当時はDTPという言葉を頻繁に聞いたような気がする。
「ディスクトップパブリッシング」。パソコンを使ってデザインをする人をDTPデザイナーと呼び始めていた。
それからの僕は当時流行っていたDTPデザインの勉強ができる雑誌「DTPワールド」なる書籍を買い、勉強してデザインのスキルアップに励んだ!
とは言っても、やっている仕事は田舎の印刷会社。
スーパーのチラシや町の会報誌とかそんなものばかりで、デザイン学校の同級生に「デザイナーやってるよ」なんて恥ずかしくて言えないレベル。
はっきり言って、業務はまったく面白くなかったし、デザイン書籍の華やかな世界とやっていることがかけ離れすぎていた。
「3年で辞めよう!」ある時から僕は自然と心に決めていた。
その会社での、もう一つの不幸が人間関係。親族多めの会社に、新卒の僕は馴染むことができず、心から笑ったことがあったかどうか。
息が抜けるのが昼休憩。。。その時間も楽しいはずもなく。。。
会社では、仕事内容よりも人間関係でストレスを感じる人が多いというのはその通りだと実感するほどにキツかった。
ストレスが溜まりすぎて、いつも体調がおかしかった。
しかも輪をかけて給与も16万円からほぼ横ばいが3年間・・・。
これ結婚して家庭とか持てないんじゃない・・・。と社会人経験薄い僕でもわかるリアル。
考えても見れば、専門学生時代に就活もろくにせず、親が見つけてきたリクルート雑誌の求人にあった印刷会社へ就職を決めてしまった自分の責任。しっかり就職活動をしていればと思っても、後悔後に立たず。
そんなこんなで月日は流れ、3年キッカリで退職をした僕。
就職2社目:デザイナーって楽しいを感じる!も倒産・・・
次の職を探して退社するなんて高度な技術も頭も持ち合わせていなかった23歳の僕は、またもリクルート雑誌を手にデザイナーの職を探していた。
ただ、田舎の街には印刷会社のデザイナー程度の求人しかなく、
通勤を1時間する覚悟でデザイナーを探した結果、見つけたフリーペーパー誌のデザイナー!
当時フリーペーパーなるものが地方都市でも流行りだした真っ只中。
就職できたのはフリーペーパー誌を手がける支社のデザイナーとして。いるのは同年代の若手営業マンばかり。
デザイナーの交代枠で入った僕にフリーペーパーのデザインを好きにやって良いというではないか!
「おおーなんという幸運!」
なおかつ給与もうる覚えだが20万程度にはもらっていたのではないか。
前職と比べればはるかに良い年収に!
仕事も、冊子の企画会議、台割構成、売る枠の価格設定etc.
そして好きにレイアウトできるデザイン。
もちろん扱うのはスーパーのチラシなんかではない、オシャレな雑貨だったり、カフェだったり。
デザイナーって楽しい!!好きにデザインできるって素晴らしい!!と心から思った嬉しい記憶。
全国雑誌を読み漁り、レイアウトを勉強して仕事に活かすという前職では得られなかった快感を得ていた。
あと、嬉しい誤算だったことが、印刷会社で地道に3年を費やしてきたデザインが通用したこと。
田舎の印刷会社で働いていた自分がどの程度にできるかなんてわからない。
そこが不安でもあったから、営業マンから「いいね!」が相次いだ時は素直に嬉しかった。
「完璧キャリアアップだよな!」って浮かれていた気がする。
そこでは、新規客へのテレアポという仕事も結構やった。
これで学んだことは1つ。
お客がお金を払う有料枠はほぼ断られる!
パブリックスペースという無料の枠は喜んで受けてもらえる!
これに尽きる!本当にこれに尽きる!!
もちろんテルし続ければ、結果はついてくる。が・・・
営業マンには失礼だが広告の営業ってめちゃくちゃ効率悪いわ。。ってこと。
そしてXデーは突然きた。
入社して半年が過ぎようとしていたある日、
出社すると同僚達が騒いでいる。業績不振で倒産。。
デザインライフを満喫していた日々は、
あまりにも呆気なく、終わった・・・。
就職3社目:運命の歯車が動き始めた
突然に訪れた悲報から、数日。
僕は動き始めていた。
田舎から一歩出れば、面白いデザインの仕事がある!ということを肌感としてわかったいたので、
あとはこのスキルで採用してくれるところを手当たり次第探そう!
心は前向きだ!
そんな就活の中出会うことができたデザイン会社の3社目。
その7年後に独立をするまでの間、お世話になり、技術・知識を確実にステップアップできた会社である。
思いかえせば今までの2社では、デザイン会社でもなかったので、
残業なんてものはほぼなく、世間のデザイナーが聞けば笑えるような通常労働をしていた。
だが、デザイン会社は違った。
時間的な拘束時間がとにかく長い。過酷労働のオンパレードで、帰宅は毎日深夜も深夜で、むしろ明け方帰ってシャワーを浴びてまた出社。
退社を見送った社員も数えられないくらい・・・。
そう、デザイナーとはキツイ仕事だったのだ。
大手広告代理店の深夜残業や過酷労働が問題視されているが、広告業とはこういう業界なんだと思い知った。
ただ僕にはそんなことはどうでもよかった。
すでに、自分のスキルをどれだか高められるかに思いがシフトしていたので、
むしろ全てを未来の自分への投資と考えていた。
なんとなくでデザイン専門学校へ行って、なんとなくで印刷会社へ就職して、、、
その時間を必死で取り戻そうとしていた。
もっと計画的に人生設定をしていればと思ってももう遅い。
今この時に人の2倍3倍の時間をデザインに費やすしかない。
ひたすらにデザインしてデザインして、そしてまたデザインして、
営業もするし、企画も考えて、撮影もして・・・・。
ひたすら、ただひたすらにデザイン業界のノウハウを全て吸収する思いで働きまくった。
デザインスキルはもとより、適正な見積もり、プレゼンの話術、信用できる人脈、、、
そう僕は、将来自分で独立することを視野に入れていた。
そして30歳退社。
ついに、デザイナーで独り立ち。
運命が動き出した。